杣人のBlog

The days of Lake Biwa, Otsu, Daichudo びわ湖・大津 大忠堂

平野さんのこと

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平野喜三さんがお亡くなりになって二年半。先週の読売新聞に平野さん講演録DVDの上映会があるという記事が載っていました。1609840_10203288942969444_1102627390_n

平野さんは大正九年生まれ、享年九十でした。(ご本人は日本人らしく数へで九十一と) お亡くなりになる当日まで自ら車を運転して、戦争体験の講演に駆け回っておられました。ちょうど終戦記念日前でお忙しい日が続き、「今日は疲れたから早く寝る」とウナギを召し上がって寝室でそのまま…。失礼な言い方ですが、なんともうらやましいご最期でした。

アンネリーゼと平野さん

アンネリーゼと平野さん

大津市国際親善協会の会長を長年に亘って務められ、大津市とヴュルツブルク市の姉妹締結の基礎を築かれた方です。私は’97ドイツレストランの運営に関わった事から知己を得、八年前に大津日独協会の設立発起人なってからぐっとお近づきになる事が出来ました。

日独協会のパーティーでは乾杯の発声は平野さんのお仕事。いつもご自分の体験をお話されるのですが、会場全部が自然とお話に聞き入ってしまうのも平野さんのお人柄だったと思います。

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この日は、ドイツ人の捕虜はいつも歌を唄って明るかったというお話でした

私も家内もお会いするたびに色々な話を訊ね、平野さんも「あなたのような若い人が私の話に興味を持ってくれて嬉しい」と、ご自分の体験をたくさん聞かせて下さいました。

戦前には戦艦大和の設計にも関ったほどの理系の人。諜報員として支那に渡って満州で終戦。ソ連の捕虜になって、シベリアのラーゲリで過酷な体験をされ「このままここに居たら殺される」と事故のどさくさに脱走。ネズミやミミズまで食べて(生でっせ、とご本人談)逃亡の末、毛沢東の八路軍に捕まって送還。帰国後も戦犯として捕まる事を避け、しばらくはあちこち移動しておられたそうです。

逃走中に出会った残留孤児の女の子に「一緒に日本に連れて帰って下さい」と頼まれたのを、足手まといになるから、「付いてくるな」と怒鳴って見捨てた事をずっと悔いておられました。自分ひとりが生き残るのに精一杯の状況ですからやむを得ない事だとは思うのですが、このご経験から残留孤児の支援活動にも熱心にしておられました。

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井上ひさしのラーゲリを描いた作品「一週間」の中で、主人公が出会った「平野徳三」という人物が「このまま、いたら殺される、と思って脱走してきた」と語っていました。名前も、その言い方もそっくりなので、もしや平野さん?と、次に会ったら訊ねようと思っていた矢先にお亡くなりになってしまい、確かめることが出来なくなってしまいました。

今の平和の礎にはこういうたくさんの方々の犠牲があった事を忘れてはならないと思います。そして、亡くなって二年以上もなるのに、あちらこちらでこうして話題に上る平野さんはやはり偉大な方だったんだと再認識。改めてご冥福をお祈りいたします。

総領事

アメルンク ドイツ総領事(右)と

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作成者: 森本 喜章

大忠堂代表取締役 滋賀県大津市、琵琶湖のほとりで日々材料を厳選し、真心を込めてお菓子を製造しています。 ご贈答や旅の思い出としても皆様に喜んでいただけるよう、地域に特化した商品作りを心掛けてをります。

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