プロ野球から原発、戦争と守備範囲の広い門田さん。
今回は大東亜戦争を実際に戦った方々へのインタビューを中心とした三部作を読みました。

悲惨な戦争は二度と繰り返してはなりません。主に大正生まれ方々の悲惨な体験に暗澹とした気分になりました。
それにしても、どうして絶対防衛圏が破られた時点で講和を選択できなかったのでしょうか。民間人もふくむ犠牲者は戦争後半に加速度的に増えていった事を思うと残念でなりません。兵站を無視した作戦や、特攻隊など大本営参謀の見境のない戦争継続の結果のみじめな敗戦。上手に幕を引けば憲法も変えられず、普通に軍隊もあるあたりまえの国でいられたかも知れません。
向後、日本が他国を侵略することは絶対にあり得ません。国際世論も、国内世論もそんな事は許しません。ですから、戦争になる可能性は攻めて来られた時、に限定してよいと思います。その時、「徹底的に戦いますよ」、「軍事同盟もありますよ」と云う姿勢の方が「話し合いましょう」「私たちは戦いません」と云う姿勢より抑止力になります。現実に即して考えていきたいものです。
集団的自衛権について議論がかまびすしかった頃、アメリカの友人何人かに「日本でこんな議論になってるけどどう思う?」と訊いてみました。
「自衛権は自衛権でしょ」、「自衛に集団も個別も無い」、「アメリカは強い軍隊を持っているので自国の防衛は容易である。集団的自衛権については考えたことが無い」
といったような答えが返ってきました。そろそろ「羹に懲りてあえ物を吹く」状態から脱皮していった方がいいと思います。
この本の中に、生き残られた方の文章が紹介されていました。失礼ながら要約させて頂きました。
「祖国が戦いに敗れそうな時、若者が命をかけて身を挺するのは当たり前だが、国が国民に死を求めるのには節度がある。特攻を命じるなどは狂気の沙汰で国の節度を超えている。
命令にたじろぎながらも高い精神で頭を高くして飛び立った男たちの姿をたたえる人々の悲しい受容は分かるが、事の本質は国家の無謀な狂気であり、特攻戦術は日本の歴史に残した汚点である。
戦争も国の政治の一つである以上、理性を必要とする。成算のない戦争の続行は責任回避そのもので、政治を担うものの国と国民に対する罪である。」
言葉もありません。己を捨て、公の為に尽くして戦った若者たちが、戦後は日本を支え発展させてくださったことにも改めて感謝です。
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